この本は十五本の映像でもある。/films/being-after-religion/で観られる。
この本の中で
第二章
世界の内側の神
宇宙もまた私である。
神が置かれた場所
神とは何かを問う前に、神がどこに置かれたかを理解するとよい。そして、それを穏やかに行うことだ。多くの人にとって、神は人生で最も大切な関係だからである。
以下は、その関係への攻撃ではない。一つの設計上の決定と、その決定が払わせてきた代償の検討である。
人類の初期の歴史の大半において、聖なるものは遠いものとして体験されてはいなかった。それは直接のものだった。自然は生きた場だった。脅かし、養い、謎めいた場である。聖なるものは、すべての上に掲げられる前に、すべての中に織り込まれていた。
共同体が大きくなるにつれて、その説明も大きくなった。かつては力の生きた場と感じられていたものが、少しずつ人格をもつようになった。雷は神になった。豊穣は女神になった。それぞれに顔と意志が与えられた。
聖なるものに人間の顔を与えることで、世界は身近なものになった。それはまた、世界を統治できるものにもした。
聖なるものが意志を持つと想像されると、それは命令できるようになった。命令できるようになると、それに従うことができるようになった。そして服従が中心になると、関係は変わった。参加から階層へ。
時とともに、神は上へと移った。世界の上へ、彼方へ、外へ。聖なるものは、もはや存在の中に織り込まれてはいなかった。それは存在を支配した。
置き場所がもたらすもの
神が世界の外に置かれると、分割が持ち込まれる。こちらに創造主、あちらに被造物。
これは直観的に思える。陶工は壺ではない。だが、この類比は肝心なところで壊れる。陶工は壺から独立して存在する。もし神が、すべてのものが依存しているものであるなら、神は世界に対して、作り手が物に対するのと同じ関係に立つことはできない。陶工は壺から立ち去ることができる。もし神がどこにでも、すべての中にいるなら、立ち去る先はどこにもない。
神が存在者の中の一つの存在者として想像されると、たとえ最高の存在者であっても、決定的なことが起こる。神は一つのものになり、それ以外のすべては別のものになる。
一体性は距離に置き換えられる。参与は服従に置き換えられる。聖なるものは、もはや存在の根底ではない。それは信仰の対象になる。
そして、仲介されなければならなくなる
神が外部にあるなら、神への接近は仲介されなければならない。
神についての知識は、どこかから来なければならない。聖典、教義、祭司職、伝統。真理は発見されるものではなく、届けられるものになる。道徳は理解されるものではなく、命じられるものになる。個人の務めは、実際に何が起きているかを明晰に見ることではなく、外部の意志に合わせることになる。
人は今や、誠実に、悪意なく、こう言うことができる。私と神との関係は正しい。だから私の行動は正当化される。
これには残酷さは要らない。必要なのは確信である。
失われたもの
この移行の中で、本質的な何かが失われた。意図的にではない。構造的にである。悪い人々によってではない。私たち全員によって、少しずつ、何世紀もかけて。
失われたのは、存在そのものが聖なるものだという感覚である。布告や信仰によってではなく、それが何であるかによって。
神が外部にあるとき、世界は一時的なものになる。この人生は参与ではなく、試験になる。聖なるものは、今ここにあると認められるのではなく、先送りされる。天国へ、死後へ、審判へ。
そして聖なるものが先送りされると、苦しみは耐えやすくなる。誰かが残酷であることを選んだからではない。構造が静かな示唆をしたからである。本物はほかのどこかにある。この人生は一時的なものだ。ここでの苦しみは肝心な点ではない。
その示唆は、残酷な人々が発明したものではない。優しい人々が受け継いだものである。そして優しい人々は、それを抱えることで、少しだけたやすくなった。苦しみを引き起こすことがではない。苦しみから目をそらすことがである。自分自身の苦しみではない。他の人々の苦しみである。
これが構造的な代償である。残酷さではない。もっと静かなもの。目をそらしてよいという許可である。
矛盾
もし神が全能で、全知で、遍在するなら、神はいったい何の外にいるのか?
すべてのものの彼方に何も存在しないなら、神をすべてのものの外に置くことは意味をなさない。神がどこにでもいるなら、神はほかのどこかにはいない。
外部の神は、攻撃される必要がない。それは自らの記述の重みの下で、静かに支離滅裂になっていく。
内在
外部の神を退けることは、すべてを死んだ物質に還元することを意味しない。それは偽りの二択である。
代わりになるものは無神論ではない。哲学にはそれを指す言葉がある。内在である。世界の上ではなく、世界の内側の神。現実の構造そのものとしての神。
その最も厳密な表現はスピノザのものである。この本が加えるのは、立場ではなく導出である。スピノザもまた、公理から倫理へと推論した。彼の連鎖は物理定数に届かなかった。この連鎖は一つの事実、一つの記録が存在するということから、定数へ、そして倫理へと走る。
内在は神を否定しない。距離を否定する。
それは言う。神は存在するものから分離していない。支配者や裁き手として離れて立っているのではない。神は存在そのものと同一である。詩としてではなく、意味をなす最も単純な記述として。
もしこれが正しいなら、世界は神によって作られ、あとは動くままに放っておかれたものではない。それは、神であるものの、絶え間ない表現である。
そして私は、その中にいる意識ある存在として、傍観者ではない。私は、自らに気づきつつある世界である。
私は宇宙にやって来たのではない。宇宙から出てきたのである。
宇宙もまた私である。
この章は、宗教の後の存在の第2章の短縮版である。
これは『宗教の後の存在』の短縮版——要約である。ここで圧縮されている手順は、原典が完全な形で載せている。原典(PDF) · この版(PDF) · この版をオンラインで読む
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